居藏(いぐら)発祥地、由来、家紋等について 母親が調べたので載せてみました
私、居藏裕子(いぐらひろこ)は調べました。(大阪市在住)
居藏姓の発祥地は 広島県竹原市忠海東町です。(旧豊田郡忠海東町)
Contents
〇 私が20代の時に父が言いました
「この町の西側の方1/3は居藏のものだった。
半兵衛屋という屋号で事業をしていた。
当主は代々“半兵衛”という名前を受け継いでいた。」…と。
私はまだ若かったので、関心がなく聞く姿勢がなかったので父はそこまでしか言わなかった。私が最後まで家に居たので、他の兄弟姉妹は聞いてない。
高齢になって父が言っていた事がふと思い出され、何故それらのものが無くなったのか、調べてみよう…と。
〇 父の妹が高齢だが健在だったので訪ね居藏一族の名前…等、色々教えてもらった
居藏の子孫の人達に戸籍謄本を取ってもらった。(H12.13.14年)
「清六さんのも有りますよ」と言われたが、聞いたことのない名前だったので取らなかったが、詳しく分かるようになり、この人が父親なのだ…と。
次に行った時には全てデジタル化され、明治の資料は破棄されていた。
清六さんの謄本があれば、4人の息子達の生年月日等…他詳しく分かったのに…と返す返すも悔やまれた。
しかし、この時点以降に調べ始めていたら、わからない事が多く、仕上げられなかった…と。
〇 忠海へ帰省の都度、法務局へ
明治3年からの土地台帳を閲覧し、居藏姓のあるところをコピー
してもらった。
古い番地だけの地図もコピー。
若い頃、何故「居藏」という名字をつけたのであろう。
万一、沢山の資産があったとしても「藏に居る」とは自らつける事は絶対しない。
何故か?と思っていた。
次のように叔母から聞きました。
明治の初め、日本国民全員が名字をつける事になり、半兵衛屋の屋号から名字をつける時、国の方から「是非この「居藏(いぐら)」という名前をつけて下さい」と言われて、親と4人の男子がこの名字をつけた…と
居藏 清六(明治29年死亡)― 居藏 半兵衛(明治41年死亡)
(前半兵衛) 居藏 勘九郎(明治6年 42才 死亡)
居藏 市助 (明治35年死亡)
居藏 半七 (明治27年死亡)
何故、国の方から言われたのであろうか?
〇 この家紋は由緒ある家紋だと伝え聞いていた子孫がいた
本屋で調べたら鎌倉北条( 三つ鱗家紋)の流れ 分家再度「コメさんどのように言っていたのか」…と聞くと、鎌倉北条の流れを汲む家系だ…と。
鎌倉北条が滅亡(1333年)から明治の初期で約500年、
どのようにしてこの広島県の片田舎へ来たのか…?
滅亡後の北条一族の行動の載っている本等、調べたが分からず、これ以上調べる方法がなかった。
〇 Yさんに聞く以外ない(忠海町在住)
この方は普通の勤め人でしたが、50才になった時、過去のこと等が
分かる能力を授かった…と。(10年前からの知人)
先祖が鎌倉北条のようなので調べて…と依頼。
数ヶ月もかけて調べた膨大な書面でした。
桓武天皇 ―――――― 国香 ―――― 北条氏
(737年~806年)(五代下って) 伊勢氏(伊勢新九郎=北条早雲の先祖)
在位25年 ・
・
・
○○氏
北条時政(初代執権)― 義時(2代執権)― 泰時(3代執権)…
二代執権 北条義時の三男 北条重時(北条政子は伯母)の流れだ…と。
鎌倉北条が滅亡した時(1333年)祖父、父、兄が自害した。
別の大将(伊勢氏)の元で守っていた弟に
「お前まで死ぬことはない。逃げよ」と逃がした。(居藏の先祖)
戦いの相手の足利尊氏はあまりに多くの一族郎党が自害するのでその怨念を恐れて、女、子供には罪はない。
逃げる者は追わない…と
足利尊氏の妻は北条の娘。
尊氏の父の正室は北条の娘。
〇 1333年~1700年頃、主君の国替え等で何度か移動
高知県の安芸市に移った時、病気になり、浪人。
病、完治後(江戸 元禄、太平の時代)
「船商人」になろうと瀬戸内側の多度津へ…。
広島 安芸の国、忠海は港町だったところへ商いに。
その頃忠海は広島 浅野藩の分家
三次藩(山間部)が領地として忠海に別荘、武家屋敷もあったよう…
1720年、三次藩に跡継ぎがなく、本家広島浅野藩に戻すことになり、忠海から引き上げる時、別荘の留守居役の娘と先祖が仲良くなっていて、忠海に残る…と。
○○町の400坪の土地を親からもらい、ここから事業をスタートしていったよう…
○○町の400坪。
明治の土地台帳に居藏市助相続、次に居藏松之助 相続…と載っていた。(約150年後のこと)
当時、その土地の前は全面海であったよう…。
いつの頃かに埋め立てられて広大な土地になり、現在は国道185号線、JR呉線が横切り、通っている。人家もギッシリと建っている。
1720年頃より夫婦二人でスタートして、半兵衛屋という屋号で事業を拡大していったよう…
その埋め立てられたところに綿畑、桑畑、麻畑、田んぼ…等があったよう。
〇 居藏勘九郎さん(明治6年 42才 死亡)の仕事について
米屋、絹物…等を手広くしていたよう。(相当に豊であった)
困っている人達からは米代を取り立てるような事は なかった…と。
若くして亡くなり、住んでいた所の一角(一坪)に祠(ほこら)が作られ、その地域の人神として祀られていた。
残された一人娘(コメ)成人し、婿養子(為三郎・大工)を取り、米屋…等出来ないので売却して他へ移った。
本家の半兵衛さん達 親族が住んでいた一角に為三郎さん名義のものがあった(古い番地だけの地図に)購入者にこの祠を守ることを条件にしていたよう。
代々聞き伝えで守っていたが、平成になり、その人達も亡くなり空き家。
その子供がそれを売却しようとして、古い傷んだ祠を取り潰した(経緯知らない為)
謄本を取ったらその一坪が居藏為三郎さんの名義。
市役所に行っても、古い謄本はないと断られ、困って同じ名字の私に「知っているか?」と問い合わせがあり、丁度調べていたので、子孫は寝屋川に住んでいる…と。
〇 居藏市助さんの仕事について
麻糸関係、明治23年の手書きの地図に市助さんの家の前に網場、染場等と書いてあった。
当時その前は海であった。
息子の松之助さんは麻糸製造業。孫の恩三さん(私の父)も麻糸で漁業用のタコ糸、イカ糸、太い縄…等製造して多方面に卸販売していた。
〇 居藏半七さんは、どのような仕事をしていたか、わからない
〇 本家の居藏半兵衛さんの仕事について
綿花、絹、麻…関係のものを船で瀬戸内海の各地に卸販売しながら
九州の方面まで下り、その帰路、各地の特産品、日用必需品等を
仕入れて販売。
そのような仕事をしていたのであろう…と。
江戸の末期頃、いつものように瀬戸内海を下っている時、
時化(暴風雨)にあい、船荷を全部海へ投げ捨て、
人夫の死亡もあったよう…。
帰って、親族会議を開き、相当の土地建物等手放したよう。
本家 半兵衛屋は事業を廃業したよう…。
どの辺に住んでいたのかとYさんに聞くと、小丸居神社から少し入った所…と。
明治3年からの土地台帳の所有者 居藏姓と番地だけの地図を突き合せたら、言われた所一帯に居藏姓の名義が数十軒あった。
本家 半兵衛さんも色々の事情で売却してこの町を去って行ったのであろう。
居藏の娘の嫁ぎ先の名前でそれらを買ったのが5、6軒あった。
〇 居藏市助さんの家系だけがこの発祥地に現在も住んでいる
しかし、ここも男子は学校、勤め先の関係でここには居ない。
又、この町も現在は空き家だらけになっている。
市助さんの建てた家(江戸時代)現在は土台、柱を残してその上に新築。
道路を挟んで松之助さんの建てた家(大正2年築)今もしっかりしている。
この二軒が発祥地に現在(令和2年)もある。
〇 先の400坪の前の土地、事業廃業後の広大な土地について
江戸から明治への移行期、国も国防に力を入れるようになった時、この広大な土地を国に寄贈したよう…。
明治の土地台帳 地図には全部官地となっていた。
兵器庫等の建物が建っていた。
「ここは居藏の物だった」と伝え聞いていた居藏の縁者が多く居た。
これら土地の一番奥のところに小さな角地が居藏名義で古い地図に載っていた。
多分、先祖がここまで…という証に残していたのであろうか…
〇 昭和20年 戦後、兵器庫等、跡地は紡績会社に払い下げとなった
そのレンガの建物は現在も使用されている。
この会社に勤めていた人が3000坪だと言っていた。
他の所は豊田郡の地方事務所、税務署、幼稚園…等、又、町営住宅がズラーと奥の方まで並んでいる。
現在も全部で数万坪であろう。
〇 昭和33年、豊田郡忠海町と賀茂郡竹原町が合併
竹原市忠海町となり、地方事務所、税務署も竹原の方へ移った。
〇 平清盛(1118年-1181年)の父、忠盛が忠海の小高い丘に陣を張って
守っていた時、あまりに美しい瀬戸内海を見て、
この町に自分の忠をとって「忠乃美」と名付けた。
伊能忠敬が日本国中を回って、地図を作ったその中に「忠乃美」と
載っていた。
近年になって忠海と改名された。
〇 旧制忠海中学校は広島県下の有数校の一校であった
出身者には
池田勇人総理大臣、ニッカウヰスキー竹鶴政孝(NHK朝ドラ マッサン)
画家 平山郁夫…。広島の旧制中学校に行っていたが原爆に遭い、命からがら島へ戻り、その後、旧制忠海中学校に転入し、卒業後、現 東京芸大へ。
旧制忠海中学校と旧忠海女学校が合併して旧制忠海中学校の場所に忠海高等学校となった。
〇 竹原について
毛利元就の三兄弟
隆元…毛利家の家督継ぎ 本家 毛利隆元
元春…山陰の吉川家の養子に 吉川元春
隆景…山陽の竹原小早川家の養子に 小早川隆景
有名な三本の矢の三兄弟である
居藏半兵衛さんの家系図
居藏勘九郎さんの家系図
〇 居藏勘九郎さんの家系について(お寺の過去帳も調査)
勘九郎さん(明治6年42歳で死亡)
妻 双子の女子を生んで、三人共死亡。息子 幼くして死亡
幼いコメさん 一人残され、勘九郎さんの母(祖母)に育てられた。
成人して、婿養子(三次の大工さん 為三郎 大正13年死亡)を取った。
コメさんの息子 京三さん(大工 妻は離縁?居ない)
東南アジアの方へ働きに出て不在。
孫娘の峰子さんをコメさんが育てた。コメさんも峰子さんも祖母に
育てられて、昔の事等、色々聞いていた。それを峰子さんの
息子 康博さんが沢山聞いていて、それを私が聞いた。
コメさん、市助さんの息子 松之助さんを頼りにしていた。
「まっつぁん(昭和26年死亡)、おこねぇー(昭和21年死亡)」と呼び合い、
終生仲良くしていたよう。
峰子さんの夫と松之助さんの息子 恩三さんの妻が兄妹であった為、
より近い親族になった。
居藏半七さんの家系図
※イセさん…居蔵松之助と結婚(従兄弟夫婦となる)
※この一族が松之助さんと従兄弟であると同時に義兄弟となる。
居藏半七さんの家系について
半七(明治27年死亡)妻(明治21年死亡)
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厚太郎 |
實太郎 |
イセ |
女子 |
女子 |
父死亡時 |
14才 |
12才 |
18才 |
10才 |
8才 |
母死亡時 |
8才 |
6才 |
12才 |
4才 |
2才 |
長男 厚太郎(明治13年11~大正8年11、39才死亡)妻(大正6年死亡)
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男子 |
男子 |
男子 |
女子 |
父死亡時 |
16才 |
11才 |
5才 |
9才 |
母死亡時 |
14才 |
9才 |
3才 |
7才 |
長女 イセ(明治9年10~明治37年5)
従兄弟の松之助さんと結婚
女子(サンヨ)2才、男子(市太郎)11ヶ月を残して27才で死亡
イセの娘(サンヨ)(明治34年9~昭和10年2月、35才死亡)
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男子 |
男子 |
女子 |
女子 |
女子 |
母死亡時 |
15才 |
6才 |
13才 |
11才 |
2才 |
両親を早く亡くした、多くの幼子が残された。
次男 實太郎さんについて
青島(チンタオ・中国)のおじさんと呼ばれて、松之助さんの家によく帰っていたよう。
戦後、息子の竹松さんの妻の実家のある方(大分 中津)へ引き揚げ。
實太郎の妻(大正5年死亡)
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女子 |
女子 |
竹松 |
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|
母死亡時 |
10才 |
8才 |
5才 |
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〇 平成13年春頃
實太郎さんの孫の龍太郎さんが幼い時、おじいさんに連れてこられた、うろ覚えの忠海の先祖の墓、居藏松之助さんの家を弟の弘一さんと訪ねてきた。
留守だったので隣家に名刺をつけて託けた。
その頃、忠海へ帰省した私がその名刺を受け取り、弘一さんに連絡を取りました。
弘一さんの方も父から何も聞いてなく、居藏とは?家紋は?
知りたく思っていたようで、丁度その頃私も調べ始めていた時で、戸籍謄本を取ってもらい、半七さんの流れが詳しく分かった。
調べた途中のものを送ると、非常に喜んでくれた。
その後、私、公私共に多忙で、落ち着いたら集めていた資料をジックリと見て、詳しく作りたい…と。
スマホでネットを開けると「居藏のことが知りたい。
発祥地?由来?…は何でもいいから知っている人は教えて下さい」と載っていた。
居藏市助さんの家系図
※半七さんの子供と松之助さんは従兄弟であり、義兄弟となる
市助さんの家系について
・長女 シヨウ(慶応元年~明治37年8、39才死亡)
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男子 |
男子 |
女子 |
女子 |
女子 |
女子 |
母死亡時 |
18才 |
8才 |
15才 |
14才 |
11才 |
3才 |
・長男 国太郎(~明治29年1)
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男子 |
男子 |
男子 |
女子 |
父死亡時 |
7才 |
5才 |
3才 |
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〇 居藏松之助さん(明治6年4~昭和26年10)について
(1)日清戦争(明治27年7~明治28年4)(1894~1895)
日露戦争(明治37年2~明治38年9)(1904~1905)
軍人として参戦。明治33年に半七さんの長女イセさんと結婚。
日露戦争で不在の時、明治37年5月に27才で妻は幼子、女子2才・男子11ヶ月を残して死亡。
(2)このような居藏一族の大変な時(両親を亡くした幼子大勢、その頃は皆、忠海に居た)日露戦争から帰ってきた松之助さんは市助さんの家督を相続した。
一族の全部が松之助さんの肩に掛かってきた。
(3)松之助さんは明治41年に再婚。
大正2年に家を建てた、当時のお金で2000円かかったと叔母が言っていた(全部含めて)。
大工さん(コメさんの息子 京三さん)の木材等、大工の請求額の台帳が出てきて、合計780円と記載あり。
家具、調度品の他、一族が集まって使用する物50組を揃えていた。家の中に井戸もあった。(現在は井戸に蓋をして台所に改修)
(4)松之助さんは麻糸製造業(漁業用のもの)の事業を。
再婚したシオさん(明治20年3月生)は先妻の2人の子供と自分の5人の子供を育てながら、今でいうキャリアウーマン尾道で干物等を仕入れ、忠海の魚等を持って、山間部(本郷、河内入野…)へ。交通機関も少なく、歩いて歩いて販売(掛売り?)
米と交換。現地に倉庫も借りて、秋には2頭立ての馬車で忠海へ運び、米屋へ卸していたとか(叔母の話)現代のように洗濯機、冷蔵庫等なく着物も布団も漬物も全部自分達で作っていた時代であった。
(5)大正2年、家を2000円かけて建てた事について。
今のように住宅ローンもなく、全部現金。わずか数年でそのような大金を作ったとは明治の人のバイタリティーのすごさ。
身を粉にして働いていた姿が浮かぶ。
(6)松之助さんは忠海の名士だったのか色々の催しに来賓として参列。
日清、日露戦争の時の勲章をいつもつけていたという。
(7)新墓地を作る時、責任者として取りまとめていたとか。
松之助さんの居藏家(市助さん以来)墓地の両隣に若くして亡くなった長兄の二男の墓地。
長姉の長女の嫁ぎ先の墓地を並べている。とても親族を大切にしていたのであろう…と。
(8)幼くして両親を亡くした大勢の子供は松之助さんを頼りにして、又、よく面倒をみていたよう。
例えば、スイカ売りが来たら、船(小船)ごと買って、納戸に数十個並んでいて、親族の皆さんに食べてもらっていた…とか。
(9)昭和26年、松之助さんに臨終が近づいた時、家に入りきれない程の親族が駆けつけて、「大変世話になった」と感謝の意を込めて、皆さんから末期の水を受けて静かに旅立って逝った(老衰)誰もが出来ない事を松之助さんは居藏一族の為にしてくれたのだ…敬服します。
松之助さんを支えた妻の協力があったからこそ出来た事。妻も居藏一族の為、分け隔てなく世話をしていたよう…
物乞いの人が来たら、新しくご飯を炊いて与えていたという。
(10)行き倒れの人の面倒を看て、弔う。
居藏の墓地に、知らない人の小さな墓がある。
臨終の時、感謝して、「居藏を末永く守っていく」…と言ったとか。
〇 居蔵半兵衛さん、勘九郎さん、市助さん、半七さんの子孫の在住している所
広島県(忠海町、三原市、広島市)
鳥取県(境港市)
関西方面(尼崎市、大阪市、堺市、枚方市、寝屋川市、京都、大津市)
愛知県(岡崎市)
関東方面(東京、神奈川?…)
〇 このような調査が出来たのは先祖の願いの采配か?
・平成12年頃、フーと父が言っていた事を思い出し、調べてみよう・・・と思った。
・叔母が高齢であったが健在で色々と覚えていて教えてもらえた事。
・私自身、 この家紋が何か知らず、由緒ある家紋だと聞いて、毎回本屋へ行っても忘れていた。ある時、いつもの場所で本を見ようとしたら目の前に家紋の本が置いてあった。「早く調べなさい」という催促か?
・各人に戸籍謄本を取ってもらった時(平成12,13,14年)私が何回目かに取りに行った時、デジタル化され、明治の物は全部廃棄されていた。
・半七さんの家系が詳しく分からない状態の時、丁度、先方も先祖の事が知りたいと忠海を訪れ、その名刺から戸籍謄本を取ってもらえ、詳しく判明した。
・調べてもらったYさんは40年来の知り合いで臨終が近づいた時、「自分がこのような能力を授かったのは、居藏の系図等を調べる為になったのかも…」と言っていた。
色々条件を整えて、私に調べなさいと命じたのであろうかと思う。
この時期(平成11,12,13年)は私にとって事が多く、大変な時でした。
〇 松之助さんの息子 恩三さんが
「自分には7人の子供がいるましてや男子が3人もいる。誰かが倒れた居藏を興してくれるだろう」と言っていた。
と長兄が私に言った(今から20数年前の事)
※ 居蔵の先祖は願っています。
居藏の姓をもつ子供へ!!
倒れた居藏を興して欲しい…と。
インターネットで検索していたら居藏の発祥地・由来が知りたい、何でも知っている事があれば教えて欲しい…と載っていた。
この度、集めた資料をやっとまとめられた。
居蔵の姓をもっている人達に伝えたいと思っています。
令和2年12月
調査人 居蔵 裕子